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吉田 健一(よしだ けんいち、1912年(明治45年)4月1日 - 1977年(昭和52年)8月3日)は、英文学の翻訳家、評論家、小説家である。父は吉田茂、母・雪子は牧野伸顕(内大臣)の娘で、大久保利通の曾孫にあたる。ケンブリッジ大学中退。誕生日については、戸籍上は4月1日だが、吉田家では3月27日に祝っていた。英文学、フランス文学を中心としたヨーロッパ文学の素養をもとに、評論や小説を著した。また、イギリス文学の翻訳も多数行っている。父と親交の深かった長谷川如是閑の肝いりで、中央大学文学部教授(英文学)を一時期務めた。 == 来歴・人物 == 1912年(明治45年)、東京千駄ヶ谷宮内庁官舎に生まれた。父の茂は当時外交官としてヨーロッパにおり、母雪子も出産後茂の元へ向かったため、健一は6歳まで母方の祖父である牧野伸顕に預けられた。1918年(大正7年)、4月、学習院初等科に入学したが、父に随い青島へ行き、その後、1919年パリ、1920年ロンドン、1922年天津と東京を転々として、1926年(大正15年)、天津の学校より暁星中学へ2年次編入、1930年(昭和5年)3月に同校を卒業し、10月ケンブリッジ大学キングズ・コレッジに入学した。ケンブリッジ時代に、それまでもあった濫読癖が刺戟され、ウィリアム・シェイクスピアやシャルル・ボードレール、ジュール・ラフォルグなどに熱中した。しかし、1931年(昭和6年)3月に急遽中退、帰国し、しばらくしてアテネ・フランセへ入り、フランス語を習得した。 1935年(昭和10年)になって、ポーの『覚書』の訳を刊行、その後『文学界』への寄稿を始め、1939年8月、中村光夫や山本健吉らと同人誌『批評』を創刊。この頃は主にフランス文学の翻訳・評論を発表、また、最初の評論はラフォルグを扱ったもの(「ラフォルグ論」『文學界』1939年1月号)であった。 1945年(昭和20年)5月に、海軍横須賀海兵団に二等主計兵として一度召集されるも、そのまま敗戦復員した。戦後すぐは、最晩年の祖父・牧野伸顕の元に通い『回顧録』を口述筆記している(文藝春秋新社、従叔父の大久保利謙が年譜作成、中公文庫(上下)で再刊)。 1949年4月、國學院大學非常勤講師となる。1953年秋に福原麟太郎・河上徹太郎・池島信平と戦後初の渡英旅行。1963年4月から1969年3月まで中央大学文学部教授。 師事関係としては、ケンブリッジ時代のG・ロウェス・ディッキンソン、F・L・ルカス、帰国後は河上徹太郎などがある。主な交友関係には石川淳・大岡昇平・小林秀雄・中村光夫・福田恆存・三島由紀夫・横光利一・丸谷才一・篠田一士・ドナルド・キーンらがいる。 ただし三島とは、1960年代前半に仲違いしている。一説によると、三島が新居に移った時、部屋に置いてある家具の値段を吉田が大声で次々と値踏みしたのがきっかけだったともいう。また、ジョン・ネイスン『三島由紀夫-ある評伝』(新潮社)によると、「鉢の木会」の月例会の席上、三島の書き下ろし長編『鏡子の家』を、その面前で「こんなものしか書けないんだったら、会からは出てもらわなくちゃな」と酷評した事も大きいとされる。さらに、三島がモデル小説『宴のあと』に関して有田八郎と揉めた際、有田と旧知の間柄(有田は父・茂の元同僚)だった吉田が、間に入り事態の収拾にあたった事を三島が悪く取ったためとも言われている。 戦後復興の時期に首相だった父・吉田茂の実像を最もよく知る人物であるが、父の思い出を語ることは多くなかった。一説には、母・雪子の死(1941年10月7日。53歳)後に父が長年関係があった新橋の芸者(「こりん」、本名は坂本喜代(のち喜代子と称する))を、事実上の後妻として迎えたことに健一が反発していたからだと言われている。「佐藤栄作日記」によると、父の没(1967年)後は妹麻生和子(父の私設秘書として常に傍らにいた。元首相麻生太郎の母)とは、余り折り合いは良くなかったようである。 1977年(昭和52年)に、ヨーロッパ旅行から帰国後、体調を崩し入院、回復まもなくに新宿区にある自宅で亡くなった。現在は、娘吉田暁子(主にフランス語書籍の翻訳をやっている)が居住している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「吉田健一 (英文学者)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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